東京新聞:「子どもに食事させたかった」 3歳児と母餓死か 大阪のマンション:社会(TOKYO Web)
餓死というのは人間が体験する最も大きな苦痛の中のひとつに入ってしまうのだという説を聞いたことがある。平山夢明氏のエッセイだったか、それにそのように書いてあったのだ。確かに「お腹が空いた」というのは人間の原初的な欲望のひとつであり、それが満たされないのであればこれ以上の苦痛はないだろう。その意味ではこの事件は本当に酷いことだと、それを分かった上で敢えて言う。
何故彼女の死「こそ」が問題になるのか。
これはそもそも生活保護受給者の内にひとり不正受給者が見つかって逮捕されるのと構図としては似ている。確かに生活保護を受給しながら十分な蓄えを得ている人もいるだろう。そうした不正受給者についてはもっと取り沙汰されるべきであるとは思う。日本の不正受給率は一パーセント未満であると聞いたが、それでも不正受給は不正受給である、厳重に取り締まって貰いたい。その上で私は本気で言っている。
何故ある不正受給者「こそ」が問題になるのか。
もしも後者の、取り敢えずはひとりに過ぎない不正受給者を叩いて前者であるひとりの貧窮者を擁護している人間がいるとするなら私はそういう人間に何の理解を示すことも出来ない。だって、メカニズムとしては一緒ではないか。貧窮者と不正受給者。生活保護は――乱暴だが取り敢えず――この二種類に分けられるとしよう。だとすればそこから任意の誰かをサンプルとして取り出して問題を云々すること自体乱暴極まりないものなのではないのか、と、私は真剣にそう思っている。
誰かひとりが象徴的になって叩かれる。これは河本騒動の時と同じだ。私は civilactionjapan に寄付した人間のひとりなのだけれど、この状況と今とでは(学ぶべき時期はあったというのに!)メカニズムが何も変わっていない。そう言えば河本氏の一件は法律には反していないという意見があったらしいのだが今はどう受け取られているのだろうか。これ以上突っ込むと私の無知がバレるので止めるとしよう。
つまり、普段は餓死しそうな人間のことなど表面化されないのだ。餓死という致命的な事件を取ってこそ問題は表面に浮かび上がる。不正受給の場合はまた事情が違ってくると言われるかもしれない。私たちは生活保護という制度の名の下に受け取ったお金を飲酒やパチンコに使う人間の存在を良く知っている。なるほど、それはそれで違うかもしれない。
しかし、生活保護の不正受給率は一体何パーセントなのか。一応一パーセントより以下であるというデータは出ているらしいが、それは本当なのか。表面化しているデータだけが主となっていて実際はもっと多い、あるいはもっと少ないという事実が丸見えになってくることも確かだろう。それならそれで構わない。いっそこの機会に、溜まっていた膿を全部出してしまうように働きかけるわけにはいかないものか。私が考えるのはつまり、そういうことだ。
これはいじめにしてもそうだ。誰か特徴的なひとりが自殺によって死んだとする。するとその場合に一度は猛烈なネットでの世論が巻き起こるだろう。しかし、肝腎の「国内でのいじめの現状はどうか」という問題がなおざりにされたまま終わっていく。私は従って、この問題こそがまたしても単なる餓死者を出した、というレヴェルで終わってしまうのが恐ろしいのだ(餓死者ならそもそも北九州市にひとり存在したのではないか、その教訓を何故生かせなかったのか?)。誰かひとりを槍玉に挙げて物事の全体を論じるのはそういう弊害に陥りやすい。今私たちが必要なのは、そうした故人の死に裏打ちされた冷静なデータだ。一体この国の誰が苦しんでいて、誰を救わなければならないのか。それを行わない限り、生保で飲酒したりパチンコしたりする人の存在は消えることはない。
ひとりの死「だけ」に憤っているだけに過ぎない限り、このような悲劇は何度も繰り返されるだろう。何ならポケットマネー全部賭けてもいい。