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2012-05-15

『絶対移動中 Vol.11 リアクション』

詳細はこちらを。

ざっと通読したのだけれど、「同人誌に対するリアクション」であって特定のテーマを競作するというコンセプトではないためかヴァラエティに富んだものとなっている。それぞれの書き手の関心領域があからさまに露呈しているというのか。それぞれの書き手が得意分野を扱っているということもあって、充実した中身になっているのではないだろうか。

●表紙と巻頭言・巻末コメント

初の実写写真を使った表紙という大胆さ、そして題字の派手さも相俟ってなかなかこの企画の挑戦的/挑発的な要素を更に引き出しているのではないでしょうか。そして自分が書いた、あるいは自分が読んで感銘を受けた作品が膨大な同人誌の中に埋もれてしまうことへの危惧をいち早く一冊本を作ることで指摘した伊藤さんの堂々とした言葉に、何か励ましのようなものを感じます。自分の作品がリアクションの対象になってくれるためにも、きちんと意思表明としてレヴューを書いたり宣伝をしたりするのは大事だなと思ったり。

●有村行人「マンデリン、または孤独のカフェ」

正直なところ有村さんのこれまでの作品の中では一番面白いのではないかと思った。地に足の着いたオフビートな筆致から生まれる、様々な喫茶店に対するこだわりとそれを描写する登場人物のエンジニアとしての感慨が――登場人物とほぼ同世代だからというのもあるのだろうか――共感を呼び起こす。コーヒーの味の描写はかなり難しいと思うので、それがクリアされていることも印象に残ったのかもしれない。

●若葉幹人「理想の個室」

これは一種のトール・トークなのかな、と思いながら読んだ。建築という分野に対する登場人物のこだわりがコミカルに描かれていて面白い。フェティッシュな要素さえ感じさせる。もっと長い尺で読んでみたかった気がするし、他者との絡み合いで物語を進行させたらどうなるのだろうというところも気になった。

●霜月みつか「誰があの子を殺したの」

珍しいシナリオ形式。様々な細かい描写を通して現在を切り取ろうとする書き手の眼差しの強度を感じる。人身事故という素材を通してたまたま乗り合わせた登場人物たちの関係の冷淡さが、次第にそれぞれが持っている生きることの切実さや熱さを吐露していく方向へと転化していく過程が興味深い。そしてエンディングの余韻が忘れられない。

●志方尊志「議論好きの音楽家達―有村行人「小さな肩を震わせて」のポリフォニー

バフチンを援用した評論。不勉強故バフチンを読んだことはないので書き手の議論の水準の高さについていけたという自信は全くない。普通会話を多用した小説は小説の指南書あたりではネガティヴな評価しか与えられないのが普通だけど――だから自分も会話を重ねた作品は書かないようにしているのだけれど――会話の応酬が持ち得るポテンシャルを上手く引き出しているという印象を抱いた。

●三糸ひかり「認識、解釈、反応、行動」

個人的にはこうした哲学的なエッセイが苦手なので、十分に内容を理解出来たという自信はない。だから再読が必要だろう。ただ、人が何かを認識しそれに対して反応を行うという「リアクション」というテーマに対して一番真っ向から向き合った作品はこれではないかとも思った。末尾の引用された書物に関しても興味を抱かされる。

●宵町めめ「丘の上のホテル」

丁寧に描かれたイラストレーションと、ややミステリアスな掌編の組み合わせ。絵と文章が分離されることなく構成されているせいで作品世界にすんなりと入っていける。絵柄から勝手に個人的にノスタルジックなものを感じたのだけどどうだろうか。子供だった頃他愛もない噂に恐怖していた頃を思い出させるような……。登場人物の表情がいい(特に71ページ)。

●高橋百三「あさやけの彼女」

見ず知らずの他者との遭遇と、それを通して変わっていった登場人物を描いた一編。ホラー的な要素を含んでいながら、結局は日常へと回帰していくところが例えば高橋さんの過去の「ハーメルン」を連想させる。派手な筆致ではないのおに、読み終わった後に様々な感慨が少しずつ滲み出てくるような……。

●秋山真琴「宵闇通事件」

秋山さんらしい世界だ。ライトノベル的でもありミステリ的でもある。今回は日常に根差した設定で描かれているのだけれど、本当に秋山さんは見えないものが見えるタイプの人なんだろうなと思いながら読む。ラストの活劇的なシーンはこれまで読んだことがなかったので新鮮に感じられた。どんどん色々なものを取り込むその意志に頭が下がる。

●蜜蜂いづる「発光」

このオチ、意味分かりますか?

●伊藤鳥子「はみだした人たちの宴」

この同人誌を締め括るに相応しい一編。伊藤さんらしくオタク的な要素(男の娘など)を素材として取り入れながら、登場人物たちがままならない不況を生きざるを得ないという苦しみをテーマとして巧く消化していると思う。文学フリマが終わっても、コミケが終わってもそれでも人生は続く。それに対して捨て鉢にならないで登場人物たちは向き合う。しみじみとしたものを感じた。

Amazon を経由して買えるようになったみたいなので、地方に住んでいる方でも買えるようになりました。こちらで試し読みも出来ます。

2012-05-14

それでも日本で生き延びていくために

@May_Romaさんが語る。「騙されない方法、自分を守る最も簡単な方法」 - Togetter @May_Romaさんが語る。「騙されない方法、自分を守る最も簡単な方法」 - Togetter

急増する「就活自殺」の元凶 - ネタりか 急増する「就活自殺」の元凶 - ネタりか

恥ずかしい話を書くのがこのブログの一貫したテーマなので書くとするなら、私は英語を使いこなすことが出来ない。読み書きも殆ど出来ない。一応大学では英文学専攻だったのだけど、卒業してから一度も使う機会がなくなってしまったせいで錆び付いてしまった。だからそういう人間の僻みが半分入った感慨として、海外で活躍出来る人材というのは本当に凄いんだろうなと思う。文化圏がぜんぜん違う人間を相手に交渉を行うことが出来るからだ。それだけ活躍の場が広がるし、有用な人材として重宝する。逆に言えばそこまでグローバル化が進むと、英語が使えない人間は置いてけぼりという話になって来る。これからもグローバル化の流れは止まることはないだろう。かつてはコンピュータが使えない人間が負け犬になってしまったように、今では、そしてこれからも英語が使えない人間は負け犬なのだ。

僻みを丸出しにするなら、私はそれでも日本で働くということに愛着を持っている。確かに今の雇用制度はガタガタだし、人間関係でも例えば回りくどい飲みニケーションに巻き込まれたりするのが嫌だったりもするのだけれど、それでも自分は日本という国が好きなのだろうと思う。それは結局はこの国を出ていくことが出来ないからという居直りの気持ちもあるのだろうけれど。

萱野稔人は『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』という書物で、日本における格差問題は実は日本国内に限定されたものであると指摘している。どういうことか。グローバル化が進めば海外の賃金の水準と日本の賃金の水準は同じになるはずだが、実際のところ海外と日本の賃金の水準にそれほど差はない。しかし日本で格差問題が起こっているとするならそれは問題が国内の次元で生じているということを意味する。萱野はここから、経済的な見地からのナショナリズムの有効性を論じていく。ナショナリズムと言えばあまり歓迎されないイメージが強い。私自身もあまりこれまでナショナリズムというものを肯定的に考えてきたことはない。しかし、グローバリズムを強硬に推し進めれば海外から人材がどんどん流入してくることは間違いない。それは不可逆な流れだ。それに対して「悪しき」ナショナリズムが生じることになる。要するに外人は自分の国に帰れ、という排外主義だ(詳しくはこちらの感想をどうぞ)。

日本が崩壊するかもしれない、という言葉がまことしやかに流通している。確かに経済危機という点からすれば既に崩壊の方向に向かっていることは実感として感じることが出来る。そういう風潮が先述したグローバルに通用する働き手を要求させる追い風になっていることも間違いない。何度も言うが、結局は僻みになってしまうのだけどそれでもなお日本という国は国民を統治するための、萱野的に言えば「暴力」を孕んだ存在として立ち上がってくることだろう。これまでの太平洋戦争などを生み出したナショナリズムとはまた異なる、しかし必要悪としてのナショナリズムが生じてくることは想像に難くない。要するに日本で生きていくためには日本に対するある種の忠誠心が必要になってくるのだろう。日本が好きで、日本から出ていけない人間としてはそれを受け入れる他に方法はないのかもしれない、と考える。だがこれ以上は更に考えを煮詰める必要があるのだろう。

おまけだけど、自分の発言を Togetter でまとめました。興味のある方はどうぞ。

ASのぼやきストライクス・バック 就活に失敗した先輩として - Togetter ASのぼやきストライクス・バック 就活に失敗した先輩として - Togetter

2012-05-13

「当たり前のこと」を何故確認しないと生きていけないのか

Twitterで話題になったので。

http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6859269.html

私は、この相談主に対して「お前がそう思うんならそうなんだろう。お前の中ではな」と言いたい気分になった。その一部始終を自分は見ていないので確かなことは何ひとつ分からないのだけれど、たったふたつだけのサンプルを取り出して「アスペ」(嫌な略称ですね)はこういう人間なのだ、と結論付けているのが思考の粗雑さを現しているように思えてならなかったからだ。もっと言えば、こういう人は質問という如何にも「他人の意見も拝聴したいです」という態度を取りながら、自分の意見を変えることのない単に自説を披露して共感を覚えたいだけの人だと推定する。そういうことはブログなり2ちゃんねるなりに書けばいいことで(ブロガーや2ちゃんねらに失礼か?)、端的に意味が無いことだ。

で、それで話を終わらせてしまえば簡単なのだけれどこういう記事にまともに触れて少なからずダメージを受ける人もいるという事実があるのもまた一方であって、こういう場合の慰めとしては「アスペルガー症候群の人間といっても様々で、人間は本来十人十色なのだから許容されるべきだ」という言葉が出て来る。確かにその通りだと思うのだけど、しかし奇妙ではないだろうか。だって、人間が「十人十色」なのは当たり前のことなのではないか。「人を殺してはいけない」「物を盗んではいけない」というのと同じレヴェルの言葉が、どうして人を癒すことに繋がり得るのか。

そう考えてみると、本当に生きづらい時代になってしまったものだと思わざるを得ない。ごく初歩的なところをいちいち確認しないと(あるいは周囲に了解させないと)いけないのだ。「鬱病は甘え」などでは絶対にないし(もちろん甘えている奴はいるが、それと鬱とは関係ない)、もう少し良い生活をしたいという希望を持つことも、そのためには今の雇用状況では過酷に過ぎることもまた当たり前のことなのだ(ニートや引きこもりはある意味ではその現実を――もちろんネットの情報を真に受け過ぎている可能性も高いが――拒否したいという、ごく真っ当な意見の持ち主なのかもしれない)。

話をアスペルガー症候群に戻すと、確かに自分のような人間と関わり合いになるのは面倒臭いんだろうなと自覚することがある。そう影で言われている事実があることも自覚している。しかし、世の中はそういう面倒臭い人間と関わり合いながらある目的に向かって生きていくという柔軟さを本来必要とするものであるだろうし、そうして先人たちは「相手が面倒臭いから」という理由で傷つけ合ったり殺し合ったり人権を侵害したりしない工夫を何とかこしらえてきたのではなかったのか。だが、その面倒臭さに私たちはレッテルを貼ることに慣れてしまった。アスペルガー症候群は診断によって分かる発達障害の一種だが、定型発達者を含めた世界であっても世代や思想的なポリシーや生き方に対して「クラスタ」というものが生まれ、そしてそこからレッテル貼りが生まれる。私は団塊ジュニア世代に属する人間なのだけど、「ゆとり」という言葉で侮蔑されている世代の人の苦労は想像に難くない。

ではどうすればいいのか。もともと人間関係なんて単純に分かり合えるほど円滑には進まない――そう思うから就活でたかが人事の人間に拒絶されただけで自己否定された気分になって自殺する人が生まれるのだ――ということをもう一度確認するのが大事なのではないか、と、これもものすごく当たり前の結論に至らざるを得ない。逆に言えばそういうリアルでの当たり前を忘れさせ、面倒臭さを簡単に撤廃してしまえるほど円滑なコミュニケーションを生んでくれるという影響力(幻想に過ぎないのだけど)を帯びたネットというものは恐ろしいと思う。

<追記>

ちょうどいいタイミングで流れてきたので。

http://chaos2ch.com/archives/3406584.html

2012-05-11

就活失敗して人生詰んだ私がそれでも自殺をしない理由

死の淵に立ったことが二度ある。一度目は私が就活に失敗した時のことで、当時は出版社関係を主に受けていたのだけど自分が本当に編集者になるためにはどんな戦略を取ればいいのかさっぱり分からなくて、というよりも自分にそんな編集者になれるだけのスキルがあるのかどうかさえも分からなくて、面接で落とされる度に「ああ、自分はダメな人間なんだな」と全人格を否定されたような気分になってそれが高じて卒業まであと少しというところで当時処方されていた薬を大量に飲んだのだ。まだ私がアスペルガー症候群だと分かる前の話である。その時は二日ほど入院した。二度目は去年の年末にやってしまったオーヴァードーズだった。

実際に実行に移すかどうかはともかく、自殺願望を抱いたことがないという人を私は信じられない。何か人として大切な物が欠落しているのではないか、そんな気さえする。逆に言えばそれほど私にとって自殺願望というものは薄っすらと私の思考を包み込んでいる。私はよく「考え方が自罰的だ」「自分に自信を持っていない」と言われるのだけれど、それは子供の頃からそうした自殺願望を遂に振り払うことが出来ずに生きてきたからだと思う。あとはいじめに遭っていたこともまた大きいのだけれど、これはまた別の話だ。

そういう人間なので、自殺を禁じるために何をどうするべきかなどといったことは言えない。太宰治の有名な一節「夏まで生きていえようと思った」という言葉を地で行くように、取り敢えず死ぬことを先延ばしにして生き延びているようなものだから。だが、これは前に書いたかもしれないが、私は自分がアスペルガー症候群だということ、そういう障害を持っていたから就職活動も上手く行かずに今では生活保護寸前の生活をしていることを知ることが出来て幾分かは楽になった。私は私という謎の対象の本質に肉薄したと言ってもいいのだろう。アスペルガー症候群だと分かったことから学んだこと、出会った人間の数には限りがない。

中島義道は『カイン 自分の「弱さ」に悩むきみへ』で、何故生きることに価値があるのか、何故こんなにも辛いのに生きなければならないのかという問いに対して答えはないと述べた。「カントは、こういう課題はわれわれ人間に必然的に与えられていると考えた。これは峻厳な課題である。しかし、絶対的な正解は永久に得られないであろう。とはいえ、生きているかぎり、この課題を追究することそのことが一種独特の義務なんだ。いかなる義務にも勝る最高の義務なのだ。彼はそう考えた」(p.27)。つまり、一生かけても解けない問題を解きながら生きることこそが重要だという話になって来る。言葉遊びめいているだろうか。そうかもしれない。あるいは、一生(平均的には70年ちょっと)をずっと躓いたり転んだりしながらただ生きる過程に費やさなければならず、その度に「何故自分は生きなければならないのだろう」と問い続けなければならないというのは辛いものがあるだろう。

だがしかし、20代に上に書いた一節を読んだことが自分の自殺を禁じる原動力のひとつになっていることは確かだ(もうひとつは『完全自殺マニュアル』という良書を読んでしまったからでもあるのだけど、これはまた別の機会に話そう)。それがどれほど無様な人生であれ、私は私に与えられた「何故生きなければならないのか」「生きているこの私とは何者なのか」という問いを一生かかって解き明かすために(そして、それは遂に不可能なのだけれど)生きなくてはならない。自殺はそれを放棄することなのだ。それは端的に言って、思考の怠慢に過ぎない。自分が自分の人生に意味を見出しているとするならそれはそのような問いを与えられているところに由来すると言ってもいい。

難しいことを書いてしまった。そういうつもりではなかったのだけれど、ここまで書いたのだから消すのも勿体無い。ただ、就活で失敗して死ぬ人に対して掛けられる言葉があるとするなら上のようなことでしかあり得ないのではないかと私は思っている。それがどれほど無様な人生であれ、あなたはあなたという人間として生まれてしまった。矛盾するようだが、この世に必ず必要な人間なんていない。マクロな視点で言えば誰だって役割としては取り替えが効く。イチローだって、彼と同じぐらい(あるいは彼以上に)野球が巧い人間が登場すれば極端に言えばベンチウォーマーになってしまうかもしれない。イチローでさえそのレヴェルなのだから凡人の私たち――と敢えて言おう――においては何をか言わんや、だ。

だが、私はあなたにはなれないしあなたは私にはなれない。つまり、誰だって誰かとは代替不可能な存在なのだ。代替不可能であるが故にその人にしか送れない人生を送っているのだと言える。誰でもあり得ない自分自身を殺してしまうなんて勿体無いのではないかと。あなた固有の人生を形作ること、それがどれほど無様なものであれ自分自身の人生というパズルのピースを当てはめていくこと、それ自体は決して無意味なものではないのではないか、と(あるいは無意味かもしれないが、そう考えるとこの世に意味の有ることなんて何もなくなってしまう)。

2012-05-09

「死ぬ気になれば何でも出来る」は人を壊す

前回のエントリの続きなのだけれど、この発言が話題になっている。



私はこの発言は正論だと思っている。だが、だからこそ問題があるとも思っている。確かに就活が上手く行かなければ他にも代替出来る生き方はあるだろう。しかしこの言葉が本当に就活に悩んで自殺する人を救えるのかどうか疑問だ。

「死ぬ気になれば何でも出来るはず」という言葉は、人を容易く絶望の淵に追い込む。そういう言葉にリアリティを持たせられるのは本当に「死ぬ気にな」って成功した人の言葉だからだ。逆に言えば失敗している人がこうした言葉で他人を勇気づけることはまずない。自分が成功したのだから、あなたも成功出来るはず――それがこの言葉に隠されたメタ・メッセージとなるだろう。これは裏返せば、就活で散々打ちのめされて自信がなくなっている人に鞭を打つ方向にしか作用し得ない。起業して成功出来なかった場合の責任を誰かが取ってくれるわけではないし、仮に起業して失敗したとしたら膨大な借金を背負うことになるというリスクについても口を拭っている。「あなたは成功したからそんなことが言えるんだ」というのが自殺志願者からの反応になるだろう。

「そんな事で」という言葉が気になる。これもまた成功者の言葉だ。就活に仮に失敗したとしても社会的なステータスを築き上げることが出来た人の言葉だ(その「ステータス」がどれほどのものかは置いておくにしても)。逆に言えば、社会的なステータスを築きあげられない人にとってみれば――自殺者がその「ステータス」を高望みしている面はないとは言えないにしろ――結局は自分が無力だから出来ないことに対して「そんな事」も出来ないのかという抑えつけの方向に話が向かうことになる。就活に失敗したぐらいで……しかし、就活に全力投球してみた人間からすれば、これ以上はもう頑張れない、というところまで精神的に追い詰められているのが実情だろう。それに対して「そんな事」と言うのは、お前にはもっと努力が足りないと言っているようなものだ。もちろん、件のツイートの内容は雑駁に言ってしまえば「正論」である。だけど、「正論」は人を動かすとは限らない。伝えるための言葉遣いというものがあると私は思っている。

自殺することを考えている人は、最早この世の全てに絶望している。就活ではその志願者の人間性にまで深く立ち入った審査が為されるから、企業から「貴方は要らない」というメッセージを絶えず受け取ることになる。実際に起こっているのは単に人事担当者の判断によって「縁がなかった」と判断されているだけのことなのに、全人格を否定されたような気持ちになるのもむべなるかな、だろう。お前は要らないと言われ続けること……まして自殺する若年層は「ゆとり教育」世代だから上の世代からの風当たりも強い。むしろこんな状況では荒れないほうが不思議であるとさえ言えるだろう。20代のうちに人生の大半は決まってしまうのだ。それこそ老後がどうなるかまで見えてしまう。彼等には中年になってからの人生の旨味というものが分からないから一気に精神的に老けこんで「壊れて」しまうんだろうと思う。本当に理性を持っている人間は自殺なんかしない。人を「壊」さないようなシステム作りが必要となるだろう。後にも述べるが、「壊れ」させないためにはそれ相応のサポートが必要となる。

新卒一括採用が制度としてまだ生きていて、失敗してしまえばそれで人生が終わったと思わせるような暗いニュースしか流れることのない現在において、それでも人に希望を持たせるにはどうしたらいいのだろう? 就活で自殺する若い人たちを叩く前に、そういう人たちを救済するために、上の世代が出来ることはあるはずだ。逆に言えばその「出来ること」を放棄して、全てを失敗者の自己責任の問題に帰するならばこれほど恐ろしいことはない。

私に代替案があるというわけではない。ただ、言えるのは私個人の人生観に過ぎない。自殺者個々人に寄り添った言葉こそが必要なのだから、平らに均されたような人生訓は効きはしないだろう。自殺志願者に必要なのは個々人の悩みをきちんと受け止めてあげらえっる個的な繋がりなのではないかと思う。だが、友人関係も恋人関係も就活の成功云々で容易くその環境に差が生まれてしまい、弱肉強食となってしまった現在においてその個的な繋がりはどこまで有効か? 本当に重要なのはどれほど失敗しても人は何とか生きていけるという、帰属意識というのか「失敗したって自分は自分なのだ」というホーム感覚ではないかと思う。就活というアウェイでずっと戦っている人のためのホームが。具体的には家族から支えてもらうことであったり、精神科であったり学校でメンタルヘルス的な相談を受け付けている相談所を訪れることが肝要となる。

最後に。私に言わせれば、就活で失敗したというのは社会から「要らない」と宣告されたようなものだというツイートが目の前を通り過ぎていったが、これはある意味で正しい。ただ、もっとマクロな視点からすれば社会にとって必要な人材なんて誰一人存在しない。誰でも替えが効く。でも自分は自分を必要としている。それだけで十分なのだ。

2012-05-09

就活と自殺の関係だとか、『完全自殺マニュアル』の思い出だとか何とか

就活失敗し自殺する若者急増…4年で2・5倍に : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) 就活失敗し自殺する若者急増…4年で2・5倍に : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

昔の話をしよう。私が高校生の頃に一冊の本が刊行された。鶴見済という人の『完全自殺マニュアル』という本だ。このエントリを書くにあたって本棚を探してみたのだけど、見つからない。最近大量に本を処分してしまったのでその中に入れてしまったのかもしれない。だから記憶と Google による検索だけで書くことになるので、誤りがあれば指摘して欲しい。

鶴見済は現代を終わることのないルーティンワークが続く時代だと規定した。「どうせこの先も退屈な日常が続くだけ。どうせ世紀末になっても何も起こらないし、ハルマゲドンも起こらなければ、原発は爆発しない」時代である。そこでは人はあらかじめ決められたルートを皆が一斉に歩いていくことが理想とされる。終身雇用制がまだ現役だった頃の話で、退屈であっても嫌であっても会社を辞めるに辞められないまま、20代はやがて30代になり、年収はそれに従ってどれほど増えるのかがあらかじめ見えてしまいあとは家庭を持ちマイホームを築き、そして定年を迎えて悠々自適に暮らすことで人生が閉じられるというのがその価値観のベースにあったと言える。私は当時特に自分が社会人になるという自覚を持っていたわけでもなかったので、「なるほどそんなものか」程度のことしか思わなかった。

今となっては笑えるような話だ。原発はどうなったかは言うまでもない。安定した終身雇用制度は既に崩壊してしまった。自分の人生の終わりの見え方というものも随分違ってきた。どうなるかは分からないが、とにかく自分が一生サラリーマンとしてルーティンワークをこなして生きていく退屈さなんてものはとっくの昔に賞味期限が切れていることは確かだろう。文字通り明日は見えないのだ。しかし当時と共通するものがあるとするならそこには閉塞感というものが今なお存在する、ということになるだろう。

社会の価値観は多様化したはずだ。何度も言うが終身雇用制度も無くなった(復活を望む人は多いらしいが)。いざとなれば簡単に起業も出来る世の中になった。なのに何故「閉塞感」? というのが正直な感想かもしれない。私自身もそう思うのだけど、考えてみれば過去に書いたのだけど、自分自身就活に失敗した人間で自殺未遂めいたこともやった記憶がある。あの時の心理を振り返るに、人生の理想的なルートというものは(いい大学に行けばいい就職が出来る、というかつての学歴社会よりももっと)残酷に定められているという実感をひしひしと感じさせられる風潮があるからだろう。就職しても本当にホワイト企業に勤められるのは一握りで、後はサビ残過多のブラック企業で精神を壊すまで働かされるか、あるいは非正規雇用として一生不安定な(それこそマイホームなんて夢のまた夢の)暮らしをするか、ニートになるか引きこもるかといった絶望的な選択肢しか与えられないからだろう。ちなみに冗談で「この本の改訂版が欲しい」とツイートしたらリツイートされまくって結構驚いた。

話を元に戻すと分かりきったことを私は書いている。そういう閉塞感に陥っている人に掛ける言葉なんてあるはずもない(これについては別個にエントリを用意することにしよう)。ただ、ひとつだけ30代も半ばまでおめおめと生き延びてしまった自分から言えるのは、人生の旨味というものは必ずしも経済的な充実だとか身分の安定だとかに囚われるものではないということだ。自分のように非正規雇用であっても、精神を壊してもそれでもなお生きることには何らかの美味しさ(という以外の表現を思いつかないのだが……)がある、と。もちろんだから非正規雇用は貧乏のままでいいとかそういうわけではないのだけれど、たまに読んだ漫画が思いがけず面白かったり Twitter を介して出会った人と楽しくやり取り出来たりというミクロなレヴェルの楽しさが人をこの世に繋ぎ止めることもあるような、そんな気がするのだ。

この話題についてはもう少し長く書いて行きたいのだけど、ひとまずここで閉じることにする。

2012-05-07

「二次障害」を防げるなら大丈夫?

http://blogos.com/article/38444/
http://d.hatena.ne.jp/moriguchiakira/20120507

私自身も発達障害について完璧な知識を持っているわけではないので、このエントリがきっかけで新しい知識を得られることを願うのですけれど……。

http://osakanet.web.fc2.com/kateikyoiku.html

ここをもう一度読み返した上で、以下の意見を読んでみましょう。

 圧倒的多数の研究者が環境要因による「二次障害」を認めるということは環境要因による、症状の悪化や改善があると考えているわけです。


 だとすれば、遺伝的要因で上記のうち3項目はどうしても克服できなかったが、周りの人達と本人の努力によってそれ以外は克服できたとすれば、明らかに教育(的治療)によって「予防」「防止」「症状改善」できたと考えるべきです。

これは論点をすり替えています。というのは件の案では発達障害そのものが「予防。防止」出来るかのように語られているからです。もちろん二次障害の改善、もしくは発達障害が早期に発見されることによって発達障害から生じる幾つかの障害は治るものなのかもしれません。それは事実でしょう。

問題は、そのようにして治そうとして治らなかった発達障害者が必ず存在し得ることです。そして、その原因が親の教育の稚拙さに由来すると件の案では言い切ってしまっていることです。親からすれば愛情をこれ以上なく注いでいるにも関わらず、自分の子供が発達障害であることに対して「躾がなっていない」と他者に責められることや、自分を攻めてしまうことにあるのだと思います。

育て方に対して「伝統的な教育」という、内実があるようでないような悪い意味で曖昧な言葉を使われていることにも問題はあるのでしょうが、それは置いておきましょう。

私としては、二次障害が環境から生まれるのは確かに当然だと思います。それを学校などのチェック機関の役割を果たすシステムが「この人は発達障害だ」と見付け直してくれればそれ以上言うことはありません。その意味では子供の頃のうちに発達障害から生じ得る因子に対して幼少の頃からケアを施すことで二次障害の発生そのものを悪化させないようにすることはもちろん可能でしょう。

しかし件の案ではそうした二次障害の予防云々についてはそれほどスペースは割かれていません。発達障害はあくまで生まれつきのものであり、矯正出来る類のものではありません。しかしそれをあたかも産み落とした側の責任問題としているところに批判が集中しているのだと思います。

もう一度よく件の案を読み返すことをお薦めします。私としてはこの案にそれなりの理はありますが、暴論――暴論にもそれなりの理はあるのです――でしかないこの案の中核を穿つことが重要だと思うのです。