R.E.M.というバンドの『オートマティック・フォー・ザ・ピープル』というアルバムを聴いています。これはカート・コバーンが自殺した際に流れていたという噂のアルバムです。たまたまカート・コバーンをモデルにした人物の映画『ラスト・デイズ』を観たので聴いてみたくなりました。これまでにも千回ぐらいは聴いたでしょうか。聴く度に心が温まります。
尤も、これからこの作品を聴いてみたいと思う方にあらかじめお伝えしておけばこれは人を死に誘うような作品ではありません。真偽は不明ですが、U2のボノはこの作品を「素晴らしいカントリー・アルバム」と評したそうです。確かにジョニー・キャッシュあたりに似ています。アコースティックな楽器をふんだんに使って、あくまで丁寧で静謐なタッチで更なる深みを目指していく優しいアルバムです(実際に十代の子供たちに自殺を思い止まらせようとした曲も入っています)。もちろんカート・コバーンもそんなことは分かった上で聴いていたのでしょう。この作品の中に救いを見出そうとして、そしてそれを果たせなくて亡くなったのではないかと思います。
さて、前のエントリで書いていなかったことが一つあります。それは私は死ぬことは怖くないのか? ということです。死はいずれ誰にも何らかの形でやってきます。それを避けることは出来ないでしょう。子供の頃に死ぬことを本当に恐れて眠れなかったという人は多いという印象を抱いています。そして大人になってもなお人は死を考えます。死を考えると「どうせどんなに頑張っても人間最後は死んでしまうのだから」と虚しくなったり、「命には限りがあるんだから」と思って奮起する人の二つに別れると思うのですが、いずれも共通しているのは死をリミットとして捉えているということです。
何を当たり前のことを……と言われるかもしれません。しかし、私には死ぬことがそこで終わることだとはあまり思えないのです。死んだらその次の階層というか別の次元があって、そこで新しい人生が始まるような気がする、と。あるいは私は怪談が大好きなので、人は死ねばいずれにせよ幽霊となると思っています。そして現世に留まることも出来るのではないだろうか、と思うのです。……お伽話ですね。私は信仰心を持たない代わりにこうした夢想を救済として生きているわけです。
ただ、もう少し真剣に(?)話をするなら、死んだ人間は決して何も残さないというようなことはないと思うのです。死んだから何もかもが虚しいと捉えるのは、生きていることに過剰に固執し過ぎなのではないかとも思います。私たちは実際のところ膨大な死者の残した積み重ねの上に生きているし、そうした人々で後世に残る人は本当に僅かであるにせよ名前もなく死んでいった人たちの死を乗り越えて生きているという印象を感じます。そう考えると生きることに意味があるのではないだろうか、と考えます。
今日は精神状態がいいのでこんなところで。
例えば一日の天気のことを考えても、よほど表を歩いて天候の変化をつぶさに観察した場合ならともかく、いや、その場合でも、表現として『私』が完全に個別だったら見えないはずのことを書いている。多くの死者たちが体験していろいろ残した言葉や情念を動員しているわけです。特に風景描写とか天気のことを書くと、『私』が相当に死者を含んでいるという感じがするわけです。
――古井由吉『小説家の帰還』(講談社)に収められた大江健三郎との対談に際しての古井の発言