Whatever

I'm free to be whatever I / Whatever I choose And I'll sing the blues if I want

2012-01-28

楽天

例えば旧約聖書の預言者たちの激烈なる破滅の予言。これは当然、内容としてペシミズムもいいところなのだけど、ただペシミスティックなことを言うなら予言する必要はないんです。予言という形を取ったら、もう自ずから楽天になるわけです。
――古井由吉『小説家の帰還』(講談社)に収められた平出隆との対談に際しての古井の発言

随分悲しいような重苦しいようなことばかり書いてしまいました。このブログの初心はあくまでポジティヴであることでした。その意味では過去の自分を裏切るようなことをしていると思います。どのような翻意も本人の自由ですが、読まれる方には不誠実なあるいは滑稽な印象を与えるのではないかとも思います。

ただ、私はだからと言って毎日泣き暮らしているようなわけでもないのです。ざっくばらんに言ってしまえば恋人もおらず金も無く、仕事も無くなってしまったのですがそれで全てに絶望してしまったかというと……そうとも言えるけれどもそうでもないという曖昧な気持ちが本当のところです。何も無くなってしまったことに対してむしろ開放感すら感じていると言えるのかもしれません。何も無くなってしまったのなら出来ることは当然限られてきます。私の場合はごく初歩的な部分から始めなければならないようです。鏡の前で笑顔を作る練習をするとか、今後のために福祉関係の自助グループを探してみたりあとはひたすら本を読んだり、といったようなことです。

そして、このブログを書くこともまた私にとって重要な営みになっています。私はいつも書いていますが、このブログでは私の恥ずかしい部分を殊更に晒すようにしています。いい年した中年なのにまだ親と同居していること、年収が乏しいこと、コミュ障であること、将来が決して明るくないこと、などです。それを書き出すことで私は私自身を理解することが出来ます。書いたからストレスが解消する、というのとはまた違うのです。上手く言えないのですが、書けば書くほど自分が空っぽになってしまってそれが心地良いという感じを抱いています。

アダルト・チルドレンのケアに関する本を読み漁ったことがあるのですが、彼らが癒されるための手段としてグリーフワークという作業があるそうです。今調べてみればこれは何もアダルト・チルドレンだけではなく一般的な診療の場でも用いられることなのでその適用範囲は広がっているのかもしれません。内容を説明するなら、他人から受けた様々な苦しみ、あるいは愛する人の死別といった個人的な出来事に属する苦しみを他者に吐き出して、そして共感を得ることでそれまであやふやだった悲しみや苦しみが他人にも了解可能なものとなる、そして癒される、というものです。診療の場で用いられる言葉だと先に書きましたが、この私が行なっているブログでの作業もまさにそのグリーフワークなのではないか、と思うこともあります。

そもそも、書くことはこれまで数多くの人々の心を癒してきました。もちろん書くことで狂気をこじらせた人もいるので全肯定は出来ませんが、少なくともどのような悲しい出来事や思いも、冒頭に引いた古井由吉氏の言葉をなぞればそれが他人に了解可能なものになり受け容れられることで、一種の楽天性を得られるのかもしれません。無闇に難しい表現になってしまいましたが、人に「分かるよ、それ」と言ってもらうことでこんな苦しみを抱えていたのは自分だけではない、おかしいことではないと思い至ると言えばいいでしょうか。

はてなブログのコメント欄はユーザー以外からのコメントに対応していないようです。また、コメントの書きにくい文章を書いていることは自分でも分かっています。しかし、私は相変わらず悲観論を書き続けます。そしてそれが他人に伝われば、あるいはその悲観論を坂口安吾のように徹底させることが出来れば、私には救済が訪れます。

……いつもにも増して難しい表現になってしまいました。改めて別の視点から語りましょう。既にこの文章は長過ぎます。